2025年の「やりたいことリスト」を3分の1ほど書いたのだけど、その続きを書けずにいる。叶えたいことならなんでも書いたらいいのに、その優先度や実現可能性なんかを悶々と考えてしまうあたり、わたしはいくつになっても生真面目なのである。
1月1日に無事に誕生日を迎えて37歳になった。
今年は8月に試験を控え、いよいよ勉強に本腰を入れるため、日記を書くことすらままならなくなりそう。凡人のわたしがたった一年勉強するだけで受かるような試験じゃない…というのは、日々机に向かいながら他でもない自分自身が痛感させられているわけで、もはや諦めの境地だけれど、まぁ、でも、これまでどおり地道にコツコツと努力を続けていく所存。
2025年、他人と比べず自分なりの「良い一年」を手に入れましょう。
したたかに、そしてやさしく、一生懸命に生きていきましょう。
今年もよろしくお願いします。
red
日記は、一度書かなくなると書けなくなる。
いろいろ書きとめておきたいことはあっても、「まぁ、別にわざわざ書くことでもないか…」と途中で書くのをやめてしまう。最近はそんなことの繰り返しで、もう、この場所へのこだわりもさほどなくなってしまったように感じている。
今年は早めに年賀状を準備した。iPadを使ってイチから自分でデザインした、わたしだけの年賀状。昨今流行りの「年賀状じまい」という言葉も脳裏をよぎるけれど、年賀状でしかやりとりしていない旧友や恩師が年賀状を続けている限りは、わたしからやめることはしないと思う。
それにしても、はがき、めちゃくちゃ高くなったな…。
心の重荷を手放した春から、わたしはずいぶんと生きやすくなった。「誰かといっしょに生きること」に執着しなくなって、恋愛も結婚もわたしのいまの人生にはまったく関係のないことだといさぎよく割り切れるようになった。
恋していないと「つまらなさそう」とか、恋人がいないと「さみしそう」とか、結婚していないと「負け犬だ」とか、子どもがいないと「将来どうするの?」とか、そういう外野の声ばかり気にしていたわたしはもうどこにもいない。いやもうほんとに、よく考えてみれば、どいつもこいつもマジでうるせーよ(笑)
「ない」ことばかりに注目して楽しいか?「ある」ことへのリスペクトはどこにいった?
まわりに迷惑をかけず、誰かを傷つけない範囲であれば、みんなもわたしも好きなように生きればいいじゃない。わたしは、このままひとりでも、いつか誰かといっしょになる日がきても、その瞬間の「自分のしあわせ」だけを慎重に選びとって生きていくことにしたよ。そうやって、自分の人生を一生懸命に楽しんで生きていくつもりだよ。
大人になるにつれていつの間にか見失っていた「つよつよな自分」を取り戻したという点では、今年は多くの学びを得た。ちょうど年女だったし、なんというか、自分の中で大きな転換期を迎えたように感じた。それはとても前向きなかたちで、凝り固まっていた自分の思考をふわっと解放できたのがとてもよかった。このどうしようもない状況をいつまで引きずって生きていくのかね…というあきらめにも似た重たい感情は、今年のゴミ箱にえいっと投げ捨て、わたしはさっぱりとした気持ちで来年へ向かう。それはもう元気よく、誰よりも大きなストライドで、恐れることなく思いっきり向かっていくのだ!
2025年もきっと素敵な一年になる予感。巳年に倣い、蛇のように柔軟に、そして芯のある人間であるように、着実に努力を重ねる一年にしたい。
黄金色
持ち主のいなくなった家を片付けるため山形に長期滞在している父から、新米といっしょに「訳あり品のりんご」が届いたのはもう一ヶ月ほど前のことだった。
その直後からわたしは年末調整業務にかかりきりで、のんびりりんごを剥いていられるような悠長な時間もなく、日々の忙しさにかまけてそのままほったらかしにしていたら、りんごはやはりみそになっていた。(みそになる、というのは、収穫から日が経って水分が抜け、パサついたりんごのことをいう。調べてみると、どうやら山形や福島の方言らしい。)みそりんごはそのまま食べても美味しくないので、ジャムを作ることにした。
袋のラベルを見ると品種は「シナノスイート」とあり、甘味が強い品種だった。りんごの皮を剥き、傷んだ部分は取り除いて、りんごの可食部の重量に対し砂糖は控えめの20%にし、レモン果汁は適当かつ多めに鍋に入れて、弱火でコトコト40分煮込んだ。やわらかく煮立ったりんごの果肉を潰しながら、鍋底が焦げつかないようにときどきやさしく混ぜてやる。
熱湯消毒した瓶に入れ、余りは白いココットに。黄金色のジャムがきらきらと輝いている。ちょっとだけ味見をしたら、やはり砂糖は少なめにしてよかった。そのぶん日持ちは悪くなるかもしれないけれど、毎朝食べるヨーグルトに添えればあっという間になくなってしまうだろう。
思い返せば、最近、こんなふうに時間を使うことがなかった。
「やらなくてもいいけど後になって後悔しないために時間を使うこと」は、なんだかとても贅沢な時間の使い方だと思う。わたしの場合、自分のキャパシティはどうしたって限られていて、そのうちの大半を仕事に割かなければならなくなったとき、暮らしを整えたり、趣味を楽しんだり、自己啓発に勤しんだりするためのあれこれは、すべて「余計なこと」に分類される。ロングスリーパーだからただひたすらずっと寝ていたいし、上げ膳据え膳でごはんを食べたいし、なんなら空腹を我慢してでも寝ていたい。
年齢を重ねれば重ねるほど、心と身体の回復にも時間がかかるようになって、だから、今日はやっと、必要最低限の回復に充てるためだけでなく、もっとそれ以上の、自分を満たすための週末に戻ったなぁという感じがした。
仕事ではめずらしく問題を抱えていて、「明日、会社に行きたくないな…」という憂鬱な気持ちを久しぶりに味わっている。ノーストレスな職場にいてノーストレスな仕事をしていると、やはりストレス耐性も弱くなりがち。
日曜日の昼下がり。陽の光がたっぷりと入る部屋で、自分だけの時間を楽しんでいる。