pistachio green

仕事にようやく目処が立ち、上司に「飲みに行きたい」とメールをした。
何度目かの、ふたりだけの秘密の約束。だれにも見つからないようにお店で直接待ち合わせた。
すすきのの小洒落た小さなお店。カウンターのすみに通されて、上司はサッポロの赤星、わたしは余市りんごのお酒で乾杯。アルコールはとても久しぶりだった。一口飲んで、思わず深いため息が出た。

焼酎を飲み、日本酒を飲み、お店を2軒はしごした。さんざん飲んで食べたあと、「シメパフェしたい!」というわたしのわがままも上司は叶えてくれた。
「仕事、大変だったね」としみじみ労われて、笑ってごまかしたけれど、どうしてわたしが上司を誘ったのか、きっとすべてお見通しだったのだろう。仕事の愚痴を聞いてもらったり、10年前の懐かしい思い出話をしたり、流氷を見に行った話を聞かせてもらったり、いつまでも話は尽きなかった。

話題は異動の話になった。そういうシーズンだ。
「下馬評では、僕は4月から札幌にいない、って言われているんだ」
一番聞きたくない言葉だった。
「顔の広い君だから、僕の異動について何か知っているんじゃないかと思っていたよ」
そう言って笑っていた。
パフェといっしょに頼んだウイスキーをすこしずつ楽しみながら、ふいに、上司がとても真面目な顔をしてこちらを向いた。

irodoriさん。
来年度、ほんとうに僕がいなくなったら、君は、自分のことをしっかり守りなさい。
まわりに何を言われても、全部、“いなくなった僕のせい”にするんだよ。
そうしなきゃ、だめなんだよ。
君ひとりがすべてを被ることも、我慢することもない。
君が責められるなんて、あってはならないことなんだからね。

この1ヶ月、苦労して立てた来年度の計画。「甘すぎる」と上司に突き返されたのはたった3日前のことで、課長と苦心して急いで立て直した。あらためて上司に見せて了解を得たけれど、「これ、ほんとうに実現できるの?」と思ってしまうような、夢見心地の数字になった。
上司が一度NGを突き付けた理由はよくわかっていたから、それに対する文句は一切ない。とはいえ、この計画を達成しなければ責めを負うのは誰なのか。来年度も引き続きいることが決まっているのはわたししかいない。わたしがもしその状況に陥ったら、わたしはたしかに、だいすきな上司や課長を、不器用に、せいいっぱい、庇おうとしてしまうだろう。
そんなわたしの性格をすべて知っているからこその上司の言葉は、わたしの胸にやわらかく刺さった。
苦しかった。涙がこぼれた。でも、とても、ありがたかった。

上司の前で初めて泣いた。目の前にサーブされたカラフルなパフェが滲んで見えた。まだ異動が決まったわけじゃないのにどうしてそんなことを、とかなんとか言いながら涙が落ちるのをごまかそうと思ったけれど、どうしてもできなかった。
少しの間をおいて、「食べようか」と、上司がそっとつぶやいた。ベリーとピスタチオのパフェ。甘くて、ほろ苦くて、寂しくて、すこしだけ涙の味がしたことを、わたしはきっと忘れられないんだろうな。

ウイスキーのせいで酔っぱらってしまって、最後は何を話していたのか覚えていないのだけれど、狸小路をふたりで並んで歩きながらずっと笑っていたことだけは記憶にある。そしてやっぱり終電を逃し、交差点に出たところで上司がタクシーを捕まえてくれた。わたしの乗り込んだタクシーが動き出すのを見届けてから、上司は踵を返した。ポケットに手を入れて、すこしだけ背を丸めて。


今朝、目が覚めると、上司はすでに機上の人となっている時間だった。明日から三連休だから、出張を兼ね、家族の待つ東京へと帰って行ったのだった。
わたしは、久しぶりの休日をなんとなく持て余している。

淡雪色

横浜の、ベイエリアのど真ん中で、わたしは信号が青に変わるのを待っていた。
見慣れた景色、いや、「見飽きた」と思っていた景色を久しぶりにこの目で見て、ふと懐かしさが込み上げた。「あぁ、ここに帰ってきてもいいなぁ」と、ふとそんなふうに思った。札幌で暮らしたい、札幌で働きたいとあんなにも願ってやまなかったわたしは、それほどまでに追い込まれている。
久々の出張だった。はぁ…と大きくため息をついて思わず仰いだ横浜の空は、どこまでも突き抜けるように青かった。

昨夜は、広報の仕事をしていたときの課長や先輩たちといっしょに飲んだ。わたしの後任がそれはまぁとんでもなく使い物にならないそうで、「irodoriちゃんに広報に戻ってきてほしい」と半分本気で懇願された。その後任は、仕事ができないだけならまだしも、フロア中に響き渡るような声で、先輩を口汚く罵ったというのだから本当に驚いた。話を聞いている限り、人としての常識が欠落しているとしか思えなかった。
札幌でのわたしの前任に当たるひとにも会いに行った。例の後輩への対応で、彼もわたしと同じような苦労をしていたそうで、「irodoriさんがあいつと上手くやっているのか、いつも心配してます」と言っていた。ここぞとばかりに散々後輩に対する毒を吐いたけれど、正直、あまりすっきりしなかった。こうして陰で誰かのことを悪く言うのは、結局、自分の心を自分で汚してしまう。

悶々としながら早々に羽田へ向かったものの、飛行機が発つまでたっぷりと時間があり、羽田空港の書店で一冊の文庫本を買った。「独立記念日」という、原田マハさんの本だ。
24人、いや、23人の女性が次々と主人公になる短編集。至極当たり前のことなんだけど、23通りの人生がそこにはあった。23通りの人生のほんの一部を切り取りながら、ひとつ、ひとつ、読み終えるごとに不思議と前向きになるような物語が真珠のネックレスのようにていねいに紡がれていた。
生きていれば、ほんとうにいろんなことがあるね。どんなに幸せそうに見えるひとにも、一度や二度は泣きながら眠った日がきっとあるだろうし、きらきら笑っているあのひとには、未来に希望を持てずにいた過去があるかもしれない。人生なんてほんとうに「そんなもん」だ。「そんなもん」の人生を、ひとは、自分なりのせいいっぱいで生きている。
それが、簡単そうに見えていかに難しいことか。大人になったいまなら、よくわかるよ。

羽田から新千歳へ向かう飛行機の中で本を読み、音楽を聴きながら、わたしは、すきになってはいけないひとをすきになったのだとようやく自覚した。どうして、いま、このタイミングなのか自分でも全くよくわからないけど、叶わない、叶えるつもりもない、この密やかな気持ちをもうすこし大事にしたいとふと思った。いや、思ってしまった。

明日から短い旅へ。心ゆくまで、のんびり、ひとりで温泉旅。

ミッドナイトブルー

仕事が大変。久しぶりに泣きそう。「やることがたくさんあって忙しい」というよりも、「解を導くために何から手をつければいいかわからない」という難しさの中で必死にもがいている。そんなふうに悩んでいるところに、予想だにしないトラブルが四方八方から舞い込んできているにもかかわらず、隣に座っている後輩は我関せずという顔をしているし、なんかもう、ほんとうに発狂しそうになった一週間だった。
あまのじゃくでやさしい課長が、見かねて救いの手を差し伸べてくれた。びっくりして、ほっとして、でも「自分の仕事なのに」と思うととても情けなくて、しんどい。

行き詰まったときは、会社から歩いて帰るようにしている。
歩く、というのは、普段なら当たり前すぎて気にも留めないような行為だけれど、30分も歩けばなぜか心も体もすっきりする。特に、いま、空気がピンと張りつめた夜の冷たさの中を歩くのがまた格別。胸いっぱいに吸い込んだ冷えた空気に、腐った心が洗われるような気がする。

今朝は10時までゆっくり眠って、伸し餅と粕汁で朝食。掃除機をかけて、洗濯をして、サスペンスドラマの再放送を観ながらのんびりメイクをして出かけた。どんぐりで食パンを、丸善で参考書を、カルディでミックスナッツときなこを買って帰宅。どうせ残業代がたくさん出るからたまには洋服でも…と思って出かけたはずなのに、結局、一番高い買い物は参考書だった。
残り物で夕食を済ませ、久しぶりにのんびりとお風呂に入った。エコーで圧迫され内出血した胸のふくらみには、まだ生々しい針の跡が残っている。自分の身体なのに、そんなことにも気づかないくらい、わたしは日々の仕事に追われていたのだった。

「次の異動先も、ここと同じくらいのんびりした部署がいいな~」なんて、後輩は暢気にのたまっているけれど、のんびりしているのは貴女くらいなもので、そのしわ寄せはすべてわたしが被っていることにどうして気がつかないのだろうか。不思議。

もうすぐ大通公園雪まつりが始まる。