暗闇

そこに気持ちがないことくらい、わたしだってわかってる。
それでも、しなやかにからんだ指とか、背中からつたわる体温とか、くちびるのやわらかさとか、そういうの、一週間経ったいまでも生々しく覚えていて、会社で姿を見かけるたびに「あぁ…」って絶望的な気持ちになる。
もう、ほんとうに、こういうのダメだなって思う。

まさに、酔った勢い、というやつだ。
彼だけじゃない。わたしもそれにまんまとのみこまれたのだから、彼だけを責めるつもりは毛頭ない。

ホテルの洗面所で歯を磨いていたら、いつの間にか彼はわたしの部屋に入り込み、気づいたらわたしのベッドに横になっていた。「部屋に戻って眠ってちょうだい」と叱ったそばから、彼はすやすやと寝息を立てはじめ、無理に起こすのもかわいそうだと思い直し、仕方なしにわたしも同じベッドにもぐりこんだ。電気を消し、彼に背を向けて、なるべくすみっこで小さくなった。枕だけでなく、掛け布団も半分以上取られてしまって、すこし悔しい気持ちを抱えながら目をつむった。

今考えればなんと浅はかだろうと思うし、もうすこし酔いが醒めていれば、わたしはたぶん彼を叩き起こしていた。でも、6つも7つも年下の後輩だし、正直、何かが起こるなんて考えもしなかった。甘かった。

それは、半分以上取られたはずの掛け布団が戻ってきた瞬間のことだった。
酔いも眠気も一気に覚めて、キス以上になったらだめだと本能で感じた。
逃げようとしてもまたうしろから抱きしめられて、手をつないで、それから。
結局、彼もそれ以上を求めることはしなかった。寂しいのかな?酔って人肌恋しくなったかな?彼の腕を枕にしながら、そんなことを考えていた。けっこう冷静だったように思うけど、わたしはそのあと一睡もできなかった。

彼は覚えていないのか、はたまた忘れたいのか、特に気にも留めていないのか。その後、この件について何も言ってはこない。
わたしは気にしていないと言えばうそになる。でも、あえて自分からは触れていない。
そのうち機会があったらね、「どういうつもりだったの?」と聞いてみたいとは思うけど。

イケメンだし、やさしいし、よく気が利くし、面倒見もいいし、勉強もスポーツも万能。仕事にはきちんと自分の信念を持って取り組んでいて、「若いのにすごいひとがいるもんだ」と尊敬こそしていたけれど、恋だの愛だの、そんな浮ついた感情を彼に抱くことは一度だってなかった。
彼はたぶん、日の当たる道を生きてきたひと。いつだって日陰を好んで歩いてきたわたしとはまったく正反対。遊び慣れているんだろうなぁ。すっかり遊ばれちゃったなぁ。

この年齢になれば、数少ない友人はほとんどみんな結婚して落ち着いているし、いつまでも独身・かつこんなだらしのない人間なんてわたしくらいなものだろう。わたしも、自分で自分にびっくりしている。
だって、すきでもないひととキスする日が来るなんて、夢にも思わなかったもの。

…あぁ、そうだ。彼はわたしにとって「すきでもないひと」だったのに、気づいたらそうじゃなくなっちゃうんじゃないかって、それがだからもう、ほんとうにいや。いやでいやでたまらなくて、でも、なんかこう、ずるずると引きずられていく感じがして、どうしたらいいかわからない。

そこに気持ちがないことくらい、わたしだってわかってたはずなのに。