灰色

右腕をいたずらに傷つけた爪は、今日の朝、すべて短く切り落としてていねいにやすりをかけた。形の悪い丸い爪はとても不細工、ネイルカラーもしばらく塗っていない。
爪の先をきれいに手入れしたって、彼がそんなことには目もくれないことはわかってた。でも、すきなひとに会いに行く以上、自分でできる限りのおしゃれをしたかった。ただ一度、真っ赤なペディキュアを塗って、お気に入りのサンダルを履いて、ふたりで映画を観に行ったときに「すごい色だね」と言われたことがあったっけ。わたしは今日、そのときと同じサンダルをつっかけて近所の図書館へ出かけた。爪先には何も塗らなかった。

金曜日の日に、埼玉に勤めていたころの職場の先輩方といっしょに飲む機会があって、そのときにたくさんのひとから「彼とはどうにもならなかったの?」と聞かれた。間違っても「埼玉にいたころからずっと片想いしてて思いがけずにいっしょに福岡に行ったけどふられてひとりで帰ってきた」なんて言えないから、「彼とは何もなかったし何を思うこともなかったしとてもお世話になった先輩のうちのひとりです」と、9割の嘘と1割の真実を交えてそれらしく答えてきた。
でも、そう答えれば答えるほど、傷つくのは自分だった。

一年前の日記を読み返すのが怖い。
そこには、毎日を全力で楽しんで過ごしていたわたしがいる。
甘い、切ない、恋をしていたわたしがいる。
いつか今日のような日がくることを知っていながら、目の前にいるだいすきなひとをまっすぐに想っていた。彼の言葉に、態度に、やさしさに、笑ったり泣いたり怒ったりとそれはまぁ忙しいものだったけど、あのころのわたしは間違いなくしあわせだった。
失恋した直後よりも泣いてる。そんな気がする。本を読んでは泣き、明日から始まる一週間を思っては憂鬱さに打ちのめされ、彼を思い出せば寂しくなってまた泣いて…これまでとこれからを比較しても何も生まれないんだけれど、もう二度と戻らない過去だからこそ、今よりもっときらきらして見える。それがくやしくて、くるしくて、できれば思い出したくないのに思い出さずにはいられない。わたしには今がつらすぎる。お願いだから時間を戻してほしいと願う。この状況をなんとか打破したい、そういう向上心のはしくれのような気持ちも一応持ち合わせてはいるけど、今のわたしはほんとうに打ちのめされてると思う。

つらい、と言えない状況がいちばんつらいのかもしれない。