わたしは必死だった。慣れない仕事、慣れない職場、慣れない人間関係に、ともすれば彼に「会いたい」とLINEを送ってしまいそうになる弱い気持ちを打ち消して、忘れよう、前を向こう、ちゃんとした恋をしよう。そう思いながら4月を生きていた。
わたし、ほんとうに、みっともないほど一生懸命だった。

今日、昼休みが終わるころに突然彼からメールが舞い込んだ。仕事の話かとおもいきや、そこにはわたしを思いやる言葉が短く端的に綴られていた。もちろん、職場のメールだから甘美なものではなかったけれど、彼が仕事に無関係なメールを送ってよこすなんてこれまで一度だってなかったから、わたしはただただ驚いた。
返信不要と書いてあったから返事はしなかった。それでも、情けないかな、彼のメールを読んでからはほとんど仕事が手につかなかった。帰り道、あまりの忙しさに一週間ほど放置していたLINEを見ると、木曜日に彼が連絡をくれていたことに気がついた。週末を挟んでも既読がつかないから、きっと心配してメールを届けてくれたのだろうと悟った。

このまま、彼のことを上手に忘れられると思ったんだけど、なんだか無理みたいだ。
彼の中途半端なやさしさは切れないナイフみたいで、わたしの心をいらずらに傷つける。鋭いナイフなら、いっそ殺してくれたらいいのに、二度と立ち直れないくらいにめちゃくちゃにしてくれたらいいのに、彼は決してそれを許さない。

ぜんぶ、振り出しに戻っちゃったじゃない。また、一からやり直しじゃない。
ずるいひと。だいっきらい。会いたい。そばにいたい。声を聞きたい。笑顔を見たい。

会いたい。会いたい。会いたい。

空色

水曜日に横浜にやってきて、木曜日に引っ越しの荷物を受け取った。木曜日と金曜日は会社を休み、今日まで4連休させてもらって、ダンボールをすべて片付けるとやっと人間が暮らす部屋らしくなった。
カーテンの裾を上げなければ、とか、収納ボックスを買い足したい、とか、スタンドライトがほしい、とか、細々としたものはこれからすこしずつ整えていきたい。

新しく住むまちは、駅を挟むようにして商店街が伸びている。スタバがあるかと思えば、地場の有名なコーヒー専門店があり、パン屋があり、本屋があり、文具屋があり、スーパーがあり、八百屋があり、寝具店があり、バーがあり、たい焼き屋があり、パティスリーがあり、赤提灯の居酒屋があり、和菓子屋があり…なんだか他にもいろいろあるのだけれど、昔、似たようなまちに住んでいたことがあるからか、わたしはすぐにこのまちを気に入った。
商店街の先は閑静な住宅街で、わたしはその一角にあるマンションに住んでいる。4階建ての最上階、南西向きで日当たりがいいのと、ベランダからの眺望がひらけていて、窓から見える空が広いのがとてもいい。すこし歩くと大きな川が流れていて、晴れた日には川沿いの道を散歩するのもよさそうだ。
もう、この先しばらくは遠方への転勤もないだろう。そう考えると、会社の宿舎で妥協することなく、自分が心から満足できる場所に住むことができてよかった。このまちで、この部屋で、お気に入りをたくさん見つけながら、“新しい暮らし“をすこしずつ“日常“に育てていきたい。

水曜日、新しい職場に挨拶に行った。札幌に行く前に働いていたビルだから、勝手知ったる場所だし余裕綽々…と思いきや、景色が様変わりしていてびっくりした。
冷静に考えれば、そりゃ、三年も離れていればそんなものかもしれないとはいえ、まさか「エアキャビン」なる乗り物が空中をすいすいと移動している光景はまったく予想だにしておらず、三年という月日の長さを実感せずにはいられなかったのだった。
緊張しながら新しい職場を訪ねると、知っているひとがたくさんいた。みんなが笑顔で出迎えてくれて、声をかけてくれて、とてもうれしかった。どこに行ってもひとに恵まれて、のびのびと楽しく働ける環境にいられることは本当にありがたい。これまでも、そんな話をするたびに「それは君の人徳だよ」といろんなひとに言われてきたけど、決してそれだけが理由ではないことは火を見るよりも明らかだ。
新しく担当する業務は、いままで携わってきた業務とは関わりのないもので、入社13年目にもなるのにまさにイチから勉強しなければならないようだった。引き継ぎ書の専門用語の羅列に早くも目が回りそうだけれど、いつも感謝の気持ちを忘れずに、わたしらしくこつこつとていねいにがんばろう。

この週末、横浜駅をぶらぶらして思った。
わたし、福岡も好きだし、札幌も好きだけれど、横浜も好きだなぁ。
「そのまちを好きになることが仕事の第一歩だよ」
と、その昔、とてもお世話になった上司からいただいたわたしへの餞の言葉は、今も大切に胸にしまってある。自分の暮らしを整えて、自分の気持ちを整えてこそ、周りを大切に慮る余裕も生まれるのだろう。
わたしはいつだって、そういうひとになりたかった。

明日からはじまる一週間を、まずは無事に乗り切りたい。

桜色

That's life.

朝ドラの主人公ひなたが、元彼を見送ったあと、バーのカウンターでカクテルを一息に飲み干しながらつぶやいた言葉だ。自分の過去も、未来も、すべてまるごと受け入れるそのたった一言に、わたしは自分自身を重ねながら見ていた。

このご時世だけれど、会社で送別会が催された。
どこに行っても、どんな仕事でも、いっしょに働くひとに恵まれるというのは本当にありがたいことだ。「それは君の人柄がそうさせているんだよ」と、「irodoriさんの笑顔と笑い声が事務所の雰囲気をつくっていた」と、そんなふうに言ってもらえてうれしかった。
札幌で過ごした三年間は愛おしい毎日だった。久しぶりに、本当に久しぶりに、心から大好きだと思えるひとに出会えたことも、きっとよかった。いまでもわたしは彼のことが大好きだけれど、新しい環境に身を置けば、そんな気持ちも薄れていくのだろう。
今はただ、泣くことにも悲しむことにも抗うことなく、そのときがくるのを静かに待っていたい。

次は、いい恋をしよう。大好きなひとと、青空の下で堂々と手をつないで歩けるような、そういう恋をしよう。生きることを楽しもう。目の前にいるひとを大切にしながら、毎日をていねいに生きていこう。

新しいスタート。札幌はなごり雪が舞うけれど、わたしの気持ちは穏やかに晴れている。
それぞれの新生活が、実りあるものでありますように。