淡雪色

横浜の、ベイエリアのど真ん中で、わたしは信号が青に変わるのを待っていた。
見慣れた景色、いや、「見飽きた」と思っていた景色を久しぶりにこの目で見て、ふと懐かしさが込み上げた。「あぁ、ここに帰ってきてもいいなぁ」と、ふとそんなふうに思った。札幌で暮らしたい、札幌で働きたいとあんなにも願ってやまなかったわたしは、それほどまでに追い込まれている。
久々の出張だった。はぁ…と大きくため息をついて思わず仰いだ横浜の空は、どこまでも突き抜けるように青かった。

昨夜は、広報の仕事をしていたときの課長や先輩たちといっしょに飲んだ。わたしの後任がそれはまぁとんでもなく使い物にならないそうで、「irodoriちゃんに広報に戻ってきてほしい」と半分本気で懇願された。その後任は、仕事ができないだけならまだしも、フロア中に響き渡るような声で、先輩を口汚く罵ったというのだから本当に驚いた。話を聞いている限り、人としての常識が欠落しているとしか思えなかった。
札幌でのわたしの前任に当たるひとにも会いに行った。例の後輩への対応で、彼もわたしと同じような苦労をしていたそうで、「irodoriさんがあいつと上手くやっているのか、いつも心配してます」と言っていた。ここぞとばかりに散々後輩に対する毒を吐いたけれど、正直、あまりすっきりしなかった。こうして陰で誰かのことを悪く言うのは、結局、自分の心を自分で汚してしまう。

悶々としながら早々に羽田へ向かったものの、飛行機が発つまでたっぷりと時間があり、羽田空港の書店で一冊の文庫本を買った。「独立記念日」という、原田マハさんの本だ。
24人、いや、23人の女性が次々と主人公になる短編集。至極当たり前のことなんだけど、23通りの人生がそこにはあった。23通りの人生のほんの一部を切り取りながら、ひとつ、ひとつ、読み終えるごとに不思議と前向きになるような物語が真珠のネックレスのようにていねいに紡がれていた。
生きていれば、ほんとうにいろんなことがあるね。どんなに幸せそうに見えるひとにも、一度や二度は泣きながら眠った日がきっとあるだろうし、きらきら笑っているあのひとには、未来に希望を持てずにいた過去があるかもしれない。人生なんてほんとうに「そんなもん」だ。「そんなもん」の人生を、ひとは、自分なりのせいいっぱいで生きている。
それが、簡単そうに見えていかに難しいことか。大人になったいまなら、よくわかるよ。

羽田から新千歳へ向かう飛行機の中で本を読み、音楽を聴きながら、わたしは、すきになってはいけないひとをすきになったのだとようやく自覚した。どうして、いま、このタイミングなのか自分でも全くよくわからないけど、叶わない、叶えるつもりもない、この密やかな気持ちをもうすこし大事にしたいとふと思った。いや、思ってしまった。

明日から短い旅へ。心ゆくまで、のんびり、ひとりで温泉旅。