勿忘草色

数日前。世間一般で言うところのお盆休みが明けたものの、夏休みを自由に取得できるわたしの会社は働く人もまばらだった。ブラインドの先にはスカイブルーの夏空と絵に描いたような白い雲が見え、躊躇いなく降り注ぐ西日がじりじりと街を焦がしている。
欠伸を噛み殺しながらパソコンに向かっていた午後のこと。不意に内線電話が鳴った。受話器を手に取り耳に押し当て、「本社広報課のほにゃららです」といつものように名乗ると、相手も同じように名乗った。聞こえてきた声に愕然とした。その名前を聞いてペンを握る手が止まった。わたしのすきなひとが電話の向こうに、いた。

「元気?」の一言もなしに、彼は要件を述べ立てた。こちらで差配したニュースの取り扱い方について文句があるようだった。経緯を話し、今年度からニュースの取り扱い方を変える試みをしていることや、それに伴い生じる不都合をいかに解決するか考えていること、具体的な方法を示しても納得してもらえず仕舞い。
仕事上で付き合う彼はいつもそうだった。クールといえば聞こえはいいが、頑固で融通が利かず、冷徹とも言えるかもしれない。わたしだって、所変われば立場も変わるものだし、彼の言いなりになるつもりはない。とは言え、「もう一度考えてよ」と言われれば、しぶしぶそれに従うしかないのであった。
先輩に相談した。「今年度の方針をここで曲げてしまっていいの?」と言われ、確かにそのとおりだと思った。何事も、物事を始めてそれが軌道に乗るまでが大変だ。こうした新しい取り組みの浸透を図ることもわたしの仕事のうちの一つではなかったか。
「プレイヤーを増やしてはダメだよ」と先輩からのアドバイスを受け、わたしは彼ではなく九州の広報担当に連絡をした。「わたしのことを知っているからと言って、支社の広報担当を通さずに直接連絡をもらっても困る。本社に直接言えば何とかしてもらえると思われては目も当てられない」と伝えておいた。その後、彼からの連絡はない。
結局ニュースをどう発信するのか、結論は出ず宙に浮いたまま週末を迎えた。

彼とのやり取りの中で、わたしは私情を挟むつもりはなかったし、そうした覚えもない。でも、たぶん、わずかな甘さが出てしまった。そこを突かれたのだと思う。
柄にもなく緊張したんだ。声は上ずって、胸はドキドキして、「あぁ、久しぶりに彼の声を聞けた」と思ったら、そこにやさしさの欠片も感じられなくたって、わたしはやっぱりうれしかった。

彼にふられたときに、「この先、彼と仕事で接する機会があっても、わたしはいつもどおりにしていよう」と決めていた。今回は電話で話すだけだったけど、でも、決めたことをしっかり貫けてよかった。
これは、わたしの心がけだけでなく、彼のおかげでもある。彼がいつもどおりでいてくれたから、わたしも揺るぎなく前を向いていられたんだ。…と思いながら、40をとうに過ぎた男性がいつまでもぎこちなかったら情けないことこの上ないし、そんな彼だったらわたしはこんな未練今すぐにでも断ち切ることができる。そういう意味では、そっちのほうがよかったのかも。なんてね。

なんだかいろいろなことを考えさせられた一週間だった。