無色

拝啓

お久しぶりです。最後にあなたに会ってから2ヶ月が経とうとしています。元気に暮らしていますか?

国体道路に続くあの道は、だいぶん緑が濃くなったことでしょう。儚く揺れる木漏れ日の下を、毎朝自転車で駆け抜けるひとときがすきでした。入り組んだ小道を抜け、横断歩道を横切り、赤坂の交差点であなたの背中に声をかける瞬間、わたしはそれに慣れることなくいつもどきどきしていました。自転車を降りてあなたの隣を歩きながら、かすかな潮の香りに小さなしあわせを噛み締めて。
あなたもよく知っていると思うけど、今の職場も海が近いの。みなとみらいの景色を横目に、あなたと過ごしたいくつかの月日を愛しく思い出す今日この頃です。

夢でもいいから会いたいな、と、何度思ったことかしら。あなたの顔も、声も、やさしさも、残念ながらもうおぼろげな記憶でしかないけれど、大切にしたい気持ちとか、苦くて甘い思い出とか、そういうことは、知らぬ間にこの身体に深く、痛く、刻み込んでちゃんと覚えているものです。
あなたは、こんなふうにしてときどきでもわたしを思い出すことがあるのかな。毎朝のように「おはよう」とあなたに声をかけていたわたしも、いざあなたのそばから消えてしまえば、この先あなたがわたしを思い出すことなんてないのかもしれないね。

あなたがすきであろうひとは、昨年の秋に離婚したそうよ。身軽になったの、と、清々しく笑う彼女は相変わらずとても美しかった。苦しみや悲しみをすべて乗り越えたひとの、強くてやさしい笑顔だった。
わたし、恐る恐る彼女に聞いたの。あなたにはこのことを話したのですか?と。彼女は、あなたはこの事実を知らないし、あなたに伝えてもいないと言っていました。それを聞くことでわたしが何に安心したかったのか、自分でもよくわかりません。だってわたしは、そんな愚問を尋ねるまでもなく、あなたがこのことを知ったらきっとあなたは彼女を強く抱きしめたいと思うだろうし、実際にそうするかもしれないし、それと同時に、わたしのこの恋は完全に終わってしまうのだと、確信に近いような複雑な気持ちで冷静に思い至ることができたからです。
結局、わたしはこの恋を手放さないといけない運命だったのだと思います。

あのね、わたし、この前死のうと思ったの。一応念のため言っておくけれど、あなたに失恋したからではないからね。仕事のことで、久しぶりにどうしようもないほどに落ち込んだからよ。包丁を右手に握って、左手首の上をすーっと滑らせて。でも、ほんとうに切ったわけじゃない。ただの真似事。わたしは自分で死ぬこともできないんだと思ったら、どうしようもなくなって、久しぶりに大きな声で泣きました。
胸の病気を疑われたとき、あんなに死にたくないと思ったのに、今となってはそんなことどうでもよくなっちゃった。異動したばかりという贔屓目で見ても、わたしはあまりに仕事ができなくて、上手く立ち回れずに、同じ失敗を何度も何度も繰り返して、周りの方の足を引っ張ってばかり…そんな自分が惨めで、恥ずかしくて、わたし、今、ほんとうに消えてしまいたいと思うんです。つらい。苦しい。逃げたい。辞めたい。そんなことばかり考えてた一週間でした。
おかげでわたしの右腕は傷だらけ。血が滲むほどに爪を立て、自分への腹立たしさと悔しさを精一杯に呑み込んだ証拠がこれです。この赤く腫れた小さな痣と無数の傷を見たあなたなら、間違いなく「どうしたの」と聞くでしょう。あなたの強い口調はやさしさの照れ隠しであることを、わたしはあなたといっしょにいた2年間でちゃんとわかったよ。今のわたしには、そんなあなたのやさしさが恋しくて仕方ありません。ただ単に、あなたがわたしのすきなひとだからでなく、会社の先輩として、社会人の先輩として、こんなわたしをまっすぐに叱ってほしい。

あの日、あのとき、あなたにすきだと伝えたのは、決してあなたを困らせたかったからじゃないんです。だからね、すきだと告げた瞬間のあなたの表情にわたしは少なからず傷つきました。
すきだった。だいすきだった。ごめんね、ごめんなさい。あなたのこと、こんなふうに想ってしまってごめんなさい。あなたに気持ちがないことを知っていながら、すきだと言ってごめんなさい。今でもすきよ。会いたいの。でも、もう会えない。あなたが出した答えはこの先変わることはないだろうし、それを覆そうとも思わない。
あなたにしあわせになってほしい。あなたにしあわせでいてほしい。それだけは、すべてを投げ出してでもあなたに伝えておきたいことです。

またいつか、笑ってあなたに会える日が来るといいなと思います。それまでなんとかがんばるわたしでいたいと思います。さよなら。ありがとう。どうかお元気で。

                                            敬具