maroon

バスを降りた。雨は止むことなく降り続いていた。大きな雨粒がアスファルトを打ちつけ、水たまりには同心円の波紋が無数に広がっている。傘を差し、その手元を両手で握り締め、足元を気にしながら歩くわたし。信号待ちをしていたら誰かの指先が腕に触れた。振り返ると彼がいた。
上手に笑えなかった。顔も見れなかった。何を話せばいいかわからなかった。気づけば傘の手元をそれまで以上に強く握り締めていた。彼はいつもの調子で話しかけてくる。わたしは怖かった。すきなひとといっしょにいるのに「早く帰りたい」とあれほどまでに思いつめた土曜日を思い出して、彼の隣を歩くのがとても嫌だった。「髪を結んでいるから君だとわからなかった」「でも傘が君のと似ていたから声をかけた」「今日はお昼休みに○○があって」…なんて彼はいろいろと話しかけてくれたけど、適当に相槌を打ちながら歩いていた。彼と別れて自分の席についた瞬間、ほっとしてため息がこぼれて、何かを我慢していた自分に気がついた。

わたしは怯えている。
彼のことを怖いと思っている。
あの日、決定的な何かがあったわけじゃないけど、なんとなくもうダメだと思った。
すきだという気持ちがゼロになったとは言えない。彼のことは相変わらず気になるし、気にしている。とは言え、以前のような気持ちとは明らかに違う。距離を置きたい。ごく普通の会社の先輩と後輩の関係でいい。会社ですれ違えば挨拶をして、仕事上の必要があれば話をして、もしかしたら何かの飲み会の席で一緒になって、当たり障りのない会話を楽しんで…それでいいんだと思う。
戸惑っている。清々しくもある。今度こそしあわせになれる恋をしようと思いはじめた自分もいる。一過性のものだろうか。数日もすれば、また無性に彼に会いたくてたまらなくなるだろうか。明日のことはわからないけど、いつだって、自分の気持ちに正直でいたいと思うことに変わりはない。「やっぱりすきだ」と思う自分も、「もうやめよう」と思う自分も、そのときどきで自ら出した答えならわたしは甘んじて受け入れよう。

彼の誕生日が近い。去年はどきどきしながらLINEを送った。今年はどうしよう。温めていたアイディアを潔くゴミ箱に捨てるか思い切って決行するか悩ましいところ。
驚いてくれたら、と思ってた。彼のよろこぶ顔を見たかった。
ただ、それだけだった。