柳色

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昨年の春にすきなひととふたりで太宰府に行ったその帰り道、わたしは遠慮がちに「柳川で川下りをしたい」と彼に告げた。「いいですね、楽しそう」と言って彼は笑った。
あれから一年以上経って、今日、わたしたちはやっと柳川に行くことができた。

9時30分、いつもの場所で彼は待っていた。福岡は台風襲来直前とは思えないほどの晴天で、容赦なく照りつける陽射しにくらくらと眩暈を覚える。片道一時間足らずの小旅行。乗り込んだ特急列車はすぐに満席になり、わたしは彼とふたり肩を並べて座った。
お昼前に柳川に到着して、さっそく川下りの船に乗った。あまりの暑さに「これはマズイぞ」とふたりで笠を借りることに。笠は一人100円で借りられるので、今日のように暑い日にはとても助かるし、なんとなく川下りっぽい雰囲気もある。かさ地蔵のように笠を被り、不器用ながら顎の下で紐を結ぶと、同じく笠を被った彼が突然携帯を取り出しわたしにカメラを向けた。まさか本当に写真を撮られるとは思わなくて、笠で顔を隠したり景色を見るフリをしたりして彼の携帯から目をそらしていたけど、一瞬の隙を衝いた彼はちゃんとわたしの写真を撮っていた。彼女じゃなく、ましてや恐らく好きでもないだろうわたしの写真なんか撮って彼は一体どうするつもりなのかしら?と素直に考えながら、不覚にもちょっとどきどきしてしまった。
川下りは約70分、小さな船がのんびりゆらゆら水の上を進んでゆく。北原白秋を中心とした懐かしい童謡を歌う船頭さんの歌声が心地よく耳に響く。柳川の街並み、掘割のある風景、遠くに連なる山々、枝垂れ柳の柔らかさ、どこまでも青い空、白い入道雲、力強く輝く緑。いいところだなぁ、と思った。思いながらも、信じられないほどの暑さに彼もわたしも少しずつ口数が少なくなっていった。

川下りを終え、お昼ごはんにうなぎのせいろ蒸しを食べようとお店に入った。夏休みの週末、しかも昨日は土用の丑の日とあって、国内外からの観光客があちこちのうなぎ屋さんに押し寄せ長い行列を作っていた。直射日光に体力を奪われながら30分ほど並んで店内へ。久しぶりに食べたうなぎは甘辛いタレが絶妙にからんでとてもおいしい。彼もおいしそうにせいろ蒸しをほおばっていた。
その後は近くにあった御花邸で庭園を眺めたり、立花家の資料館に立ち寄ったりした。それでもやっぱり暑さに耐えられなくて、ふたりで近くにあったカフェに駆け込み、冷たいドリンクと甘いケーキを食べながら涼を取った。わたしは冷たいものを飲みすぎてちょっとお腹の調子が悪かった。お腹が弱いわたしは普段なら冷たいものを控えるところを、いやはや、今日はそんなことにも構っていられないほどとにかく酷い暑さだったのだ。
カフェを出ると、目の前に西鉄柳川駅行きの無料バスが止まっていたから迷わず乗り込んだ。特急列車の出発時刻にもちょうどよかった。帰りも運よくふたりで並んで座ることができ、「眠ってもいいかな?」と言う彼につられてわたしもぐっすり眠っていたらしく、西鉄福岡の駅に着いたころに彼が起こしてくれた。時刻は18時半だった。

「これからどうする?」と彼が聞くから、「あまりお腹が空いてないから本屋に行きたい」と言った。天神のジュンク堂に行き、彼はマンガを3冊ほど買っていた。片やわたしのほしいマンガ(『君に届け』の最新刊)はまだ入荷しておらず、「本屋に行きたい」と言ったわたし自身は自らの目的を果たせず仕舞い。でも、本が好き、という趣味が合うひとと本屋さんに行くのは楽しい。すきなひとがどんな本を読んでいるのかを知るのも興味深い。とは言え、彼には何冊か本を借りたこともあって、なんとなく彼の好みがわたしの好みに似ていることを知っているという安心感もある。今日もふたりで単行本を物色してみたり、旅行雑誌を手に取ってみたりした。
気づけば外は暗くなっていた。夕飯を食べようと昼間の暑さで蒸し上がったような街の中に再び繰り出したものの、結局、いつもふたりでよく行くファッションビルの上階でオムライスを食べた。
明日から横浜へ出張のわたし。「明日の朝、早いんでしょ?」と彼が気遣ってくれる。「まだ時間も早いからひとりで大丈夫」と言っても、やっぱり彼は知らんぷりして駐輪場までいっしょに歩いてくれた。新天町を抜けるまでほんの2、3分のこと。でも、彼のそのやさしさがわたしはとてもうれしい。「いつもありがとう」と伝えて、手を振って別れた。いつもどおりの、切ないお別れ。

「ひと月に一箇所はちゃんと九州を見て歩こうね」って約束したの。そう、彼が言い出したの。別に、それは“わたしと”じゃなくてもいいんじゃない?なんて僻んでみたくなることもあるけど、でも、すきなひとにそう言われちゃったらわたしは笑顔で頷くしかない。なんだか、そんなわたしの気持ちを彼はすべてお見通しのようで、でも、そうじゃない気もする。ちょっとよくわからない。
彼が言うとおり、福岡での暮らしも終わりに近づいてる。いや、正しくは、福岡でふたりでいられる時間が残り少なくなりつつある。それを考えると、わたしもそろそろ決断しなくちゃいけないかな、と思う。そんなふうに、考えている。