紺碧

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お気に入りのブロックチェックのワンピースに袖を通し、コットンパールがひと粒だけあしらわれた華奢なネックレスを身につける。いつもの香水を纏い、ほのかなムスクの香りが鼻をくすぐると少しだけ安心した。靴箱から取り出したのはジュート素材の夏らしいバレーシューズ。小さなショルダーバッグを肩にぶら下げて思いきり玄関のドアを開けた。眼前に広がるのは久しぶりの美しい青空、そして燦々と照りつける太陽の光。心地よい風はワンピースの裾をふわりふわりと遊ばせながら足元をすり抜けてゆく。
わたしはいつもの待ち合わせ場所ですきなひとを待っていた。ここで彼を待つ時間がたまらなく好きだ。待つことも待たせることもあるけれど、雑踏に紛れるわたしを探す彼の視線はいつだってやさしくて真剣で、そんな彼を少しの間じっと見つめていた。彼がわたしに気づくのが先か、待ちきれなくて駆け寄るのが先か。もう何度目かわからないふたりきりの待ち合わせ。素っ気ない態度の彼の隣で、ひとりそわそわと落ち着かないわたし。
博多埠頭から市営渡船に乗って「うみなか」へ行くことにした。容赦なく照りつける陽射しは肌をじりじりと焦がしながら、海沿いの風は思いのほか強く、そしてとても冷たかった。船は揺れた。風があるせいか、白波が無数に立つ程度には海が荒れていた。15分ほど船に揺られ、西戸崎の船着場に着く頃にはもうお昼過ぎ。水族館や志賀島にも行こうと話していたのに、結局海浜公園で半日を過ごすことに。広い公園をぐるぐると歩き回り、「動物の森」でいろんな動物たちと触れ合って、大きな観覧車を青空に仰ぎ見た。「わたし、小さいころから観覧車が好きなの」と彼に話すと、「乗りたいなら一緒に乗ろうか?」と言ってくれた。少し悩んで「今日はいい」と断った。小さなかごに彼とふたりきりで閉じ込められたら、わたしは息もできなくなりそうで。携帯で観覧車の写真だけ撮っておいた。この写真を見るたびにわたしは今日のことを思い出すだろうな、と、ぼんやり考えていた。それからしばらくふたりで歩きながら四つ葉のクローバーを探したけど、最後まで見つからなかった。歩き疲れてお腹が空いたから、天神で夕飯を食べて帰ることにした。
西戸崎から出る船はしばらく来なかった。ひとりでは退屈な時間も、ふたりならあっという間に過ぎていく。帰りの船ではふたりともぐっすり眠った。博多埠頭からバスに乗って天神へ戻り、前にもふたりで行ったことがあるパスタ屋さんに入った。おいしいパスタを食べ、やっぱりここでもしばらく話し込み、とはいえ「明日からまた仕事だからね」といつもより早めに帰路に着いた。
天神の街は昼夜関係なくいつだってにぎやかだ。ふいに「自転車はいつものところにとめたの?」と彼に聞かれて小さくうなずいた。彼の言葉の真意を察したわたしが「まだ時間も早いからひとりで大丈夫だよ」と言っても、彼は「駐輪場までだけどね」なんて飄々とわたしの隣を歩いている。彼のいる左側がなんだかくすぐったくて、でもうれしかった。駐輪場の前で彼に手を振ってさよならをした。彼の笑顔がいつまでも瞼に焼き付いていた。

泣いたり笑ったりしながら行きつ戻りつを繰り返す。彼に会えるとうれしい。彼と話せたらもっとうれしい。でも、ほんの小さなきっかけから未来のない恋であることを悟った瞬間、すべてが崩れ落ちるみたいに目の前が真っ暗になる。彼を想い続けることの痛みや苦しさを全身で実感する。そこに一筋の光を照らしてくれるのはやっぱり彼しかいなくて、わたしはいつだってその光に導かれる。暗闇から這い出せば彼の笑顔に会える。彼のやさしさに救われる。
いつまでこんなことを繰り返すんだろうと思う。わたしはずっと、そう思っている。
今夜、彼は福岡を発って埼玉へ帰った。置き土産のような新しい“約束”を残して行ってしまった。先週の楽しかった記憶を反芻するようにここにしたためながら、わたしは彼がいない寂しさを紛らわそうとしている。あの日見上げた観覧車よりも高いところへ上昇するであろう彼が、機内の窓から福岡の夜景を見下ろしながら、すこし、ほんのすこしでも、わたしのことを思い出してくれていたらいいなと思った。