桃色

すきなひと、と、一言で言うのは容易いが、わたしは「彼の恋人になりたい」とか「彼と結婚したい」とか、そういうことを具体的に考えたことがなかった。
すきなひとが時折見せる笑顔に「きゅん」としたり、すきなひとが真剣な眼差しで仕事をしている姿を「すてき」だと思ったり、ときどき、ほんとうにときどき、彼がやさしい言葉をくれて「どきん」と胸が高鳴ったり。わたしにとって、すきなひととの関係は日々そんなことの繰り返しで、それ以上でも以下でもない。
いや、わたしはそれ以上を望まなかった。
このままでいい、このままがいい、と、思ってた。

今回、彼といっしょに九州へ行くことになって、わたしは彼とよく連絡を取り合うようになった。九州での仕事の引継ぎをどうするか、とか。お引越しの日程が決まった、とか。わたしは社宅に入ったけれど、彼は自分で部屋を探すことになった、とか。(わたしとはまた別の社宅をあてがわれたけれど、立地が気に入らないとか築年数が古いとか、彼はひとしきり文句を言っていた。)
彼は、わたしの社宅の近くで部屋を探すか、こちらに頻繁に帰ってくることを考えて空港の近くで部屋を探すか、迷った結果、空港の近くに部屋を決めた、と教えてくれた。
ほんとうは、「わたしの社宅の近くで部屋を見つけてくれたらよかったな」と思ったし、冗談めかして彼にそう言ってもみたけれど、わたしは彼が度々こちらに帰らざるを得ない事情を知っているから、「空港に近いのは帰省するには何かと便利、その方が絶対にいい」と、はっきり伝えた。すると、彼は「同じ市内だし、何かあったらすぐ行きますよ」と言ってくれた。それが心強くて、うれしかった。
とは言え、仕事も暮らしも環境も大きく変わることに加え、人間関係もイチから築かなければならなくて、わたしは日を追うごとに不安や緊張が増してゆく。もちろん、それはすきなひとも同じだろう。そうは思いながらも、会社の電話で話をしながらこっそり弱音を吐いたわたしに、「僕が盾になってあげますから」とさらりと言ってのける彼はやっぱりうんと大人でかっこいい。

「彼には、“九州に行ってよかった”と思える日が必ず来るよ。」と、わたしの先輩が言っていた。彼を九州へ異動させることはやむを得なかったとしても、それはやはり先輩の本望ではなかったらしい。(もちろん、彼の九州行きが“わたしの護衛のため”というのも他愛ないジョーク。)
いくつかの条件。社会人としてのステップアップ。これから会社を担ってゆくひと、そして、その器があるひとだからこそ、彼は九州へ行く。

異動日が近づき、引越しが近づくにつれて、怖気づくわたしもいるけれど、彼に負けないように、彼の前で恥ずかしくないように、わたしなりに精一杯がんばろう、と、あらためて誓った。