お盆も終わって月曜日。京浜東北線で人身事故。長い休み明けは、決まったように電車のダイヤが乱れている。
今日、わたしは夏休み第2弾を過ごしている。と言ってもただの3連休でしかないから、早起きをして洗濯機を回し、お風呂掃除をして、掃除機もかけた。洗濯物を干しながら、刺すような陽射しの強さの中にからりと乾いた風を感じて、ほんの少し、秋に近づいたような、そんな気がした。


TwitterとかFacebookとかそんなものが流行りはじめてから、写真は“自ら撮って楽しむもの”から“誰かに見せて楽しさを共有するもの”へと、その位置づけを変えつつある…というような話をどこかで目にしたことがある。

店の冷蔵庫にもぐりこむ写真、調理場の食材を口にする写真、(たとえ廃棄予定だとしても)食材に横たわる写真、そして今度はピザを顔面にはりつけた写真。彼らは、こうした行動を写真におさめてSNSで共有することで波及する問題、いや、その行為こそが問題であることには考えが及ばないのだろうか。
彼らの周りにいる人間が、そんなくだらない写真を見て面白がる…そこに楽しみを見出すのであれば、つまり、彼らの周りで彼らの行為を面白がる人間は、彼らと似たり寄ったり、「類は友を呼ぶ」ということ。本当なら、そんな行為は面白がることでもなんでもない。バイトだから、社員だから、ではなくて、“ひとりの人間としてどうなのか”ということ。

常識を知らない大人(さすがに高校生や大学生も、そういう意味では大人でしょう)が増えているのだなぁ、と、わたしは最近よく思う。似たような例で言えば、花火大会で屋台のガスボンベが爆発して多数の死傷者が出てしまった事件。当時の現場は惨憺たる状況だったにもかかわらず、我先にと逃げ惑う人たちがいたかと思えば、面白おかしく携帯で写真を撮っていたひともいたという。(事実、事件の直後はTwitterに「現場の状況」を伝える写真がたくさんUPされていた。)
もし、自分がその場にいたらどうしたかな。一目散に逃げはするかもしれないけれど、その場で携帯を取り出して写真を撮るなんてこと、思いつきもしないだろうな。

時代とともに移りゆく様々なことに、後ろ髪を引かれる思い。便利さと引き換えにわたしたちが失ってゆくものがたくさんあることを実感する。淘汰される、とか、時代の流れ、とか、そう言ってしまえば聞こえはいいけど、それだけじゃ済まないような気がしているのも嘘ではない。10年後、20年後、50年後、時代は今よりもっと便利になるだろう。でも、人間が人間として生きてゆくための「生きづらさ」みたいなものは、きっと倍くらいになってわたしたちに返ってくるんじゃないかと思う。(今流行りの「倍返しだ!」じゃないけれど…)

目の前にぷかり、ぷかりと浮いていたわた雲が、風に揺られてどこかに消えた。見上げれば、雲ひとつない青い空が広がっている。「仕事が嫌だから」「学校が嫌だから」と、電車に飛び込んで死ぬこともないよな…そんなふうにして毎日のようにひとつ、またひとつと消えてゆく命が惜しいと思う。