桜色

先輩のいない会社は味気ない。今にも崩れそうな書類の山も、うず高く積まれた本や雑誌も、茶渋だらけのジュラシックパークのマグカップも、仙台四郎の小さな置き物も、すっかり片付けられてきれいになった。4月に入ってから、先輩が自分の机の荷物を黙々と段ボールに詰めているのを横目に、わたしはいつも泣きそうな思いで仕事をしていた。

今、先輩の机には新しい人が座っている。とてもいいひとなんだけど、仕事となると妙に細かくて、変なところにこだわって、どちらかというと頑固だからちょっとやりづらい。
何を隠そうわたしがこういう性格だから、先輩のおおらかなところにいつも助けられていた。「ここはきちんとするところ」と「ここはどうでもいいところ」は先輩がちゃんと見ていてくれた。その安心感ったらなかった。それほどまでに、昨年度、わたしは先輩に頼り切っていた一年だったと今さらながら思い知る。

「お前はかわいいヤツだなぁ!」
最近は、酔うと決まってそう言いながらわたしの頭をわしわしと撫でる。
「前向きで、一生懸命で、いつも笑顔で、お前は偉いよ。」
そんなふうに手放しでほめてくれるようにもなった。
「俺が結婚していてよかったな。そうじゃなかったら俺はお前に惚れてたぞ!」
なんて言われたこともあったけど、わたしは先輩のことが大好きだった。
「この一年間、ほんとうに楽しかった。俺にとって宝物の一年だった。」
最後、先輩はそう言い残して去って行った。

わたしの先輩への感情は、決して惚れた腫れたの類ではない。でも、いっしょに仕事をするパートナーとして心から尊敬しているし、憧れているし、会社の広報に携わる人間として「あんなふうになりたい」と思う存在だし、とても好きだった。大好きだった。
新しい体制でも、これまでと同じように楽しく仕事をしたいな。先輩が築き上げてくれたものを少しでも壊したくない。一年かけて先輩に教えてもらったことを忘れずに心掛けたい。それが、それこそが、先輩に「ありがとう」を伝える唯一の方法だと思うから。

桜の花びらがひらひらと舞う。
かすかに甘い春の香りが切なくて、苦しくて、4月はいつも泣いてばかりだ。

tear's blue

社内報3月号は先日無事校了を迎えた。忙しくも楽しい日々だった。連日の残業でどんなに帰りが遅くなっても、身体に多少の不調が出るくらいで精神的につらいということはなかった。「この仕事、一体いつ終わるんだろう…」と途方に暮れていた2週間前だって、そんな状況を心のどこかで楽しんでいる自分がいた。
とはいえ、週末になれば広報誌の方の取材に出掛けることもしばしばで、自宅は散らかり放題、キッチンにもしばらく立っていないし、洗濯物は山のよう。睡眠不足による肌荒れは薬局で買ったビタミン剤でなんとかするような、そんな生活だった。
最終稿を確認し、編集後記を書いて、印刷会社にすべての入稿データを渡したときの解放感ったらなかった。同時に、一抹の寂しさも感じた。

翌日、とうとう先輩の異動が決まった。決まってしまった。
広報の仕事が初めてのわたしに、その「いろは」を文字どおり“叩き込んで”くれたのは先輩だった。おかげでこの一年、先輩には何度も泣かされたし、悔しい思いもしたし、自分の無力さに呆れ果て働く目的を見失い、「こんな仕事辞めてやる!」と本気で考えたこともあった。
でも、どんなに厳しい言葉の中にも、先輩の優しさと温かさ、何よりわたしへの大きな期待を感じないことはなかった。先輩のその思いに応えたい―その一心で必死に食らいついたからこそ、今、この仕事を心から楽しいと思うわたしがいる。
先日課長と面談して、今年度の下期の評価を伝えられた。我が社はいわゆる相対評価で、5段階評価の3をもらうひとが大多数の中、わたしは4の評価をいただいた。その上で、課長からは「上期に比べて格段に実力がついてるよ」と身に余る言葉まで頂戴した。
出来が悪く覚えも遅いわたしを、辛抱強く指導して温かく見守ってくれた先輩のおかげ。それしかないと思う。この感謝の気持ちを先輩にどう伝えたらいいのか、わたしはまだ悩んでいる。

その日の飲み会で、赤ワインをたくさん飲んで大いに酔っぱらった先輩は、終電が迫り先に帰ろうとするわたしの頭をふいに触って、ぽんぽんとやさしくなでてくれた。その瞬間、「あぁ、先輩にとっては出来が悪くても教えがいのあるかわいい後輩でいられたんだな」と、わたし自身も酔った頭でそんなことを考えた。
先輩も、今回の異動は少なからずショックだったようだ。わたしもショックだった。でも、すべては会社が決めたこと。仕方がないけどどうしようもなく心細くて寂しくて、わたしは泣きながら電車に乗って帰った。
次の日、先輩は二日酔いで午前中仕事を休んだ。わたしもなんだか気が抜けてしまって、ほとんど仕事が進まなかった。

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三連休の南三陸町。左奥に見えるのは塗装工事を終えた防災庁舎。被災地の上にもきれいな青空が広がっていた。
春、出会いと別れの季節はすぐそこに。

ivory

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彼からまた頻繁に連絡が来るようになった。

週末は都内で仕事。取材の予定。同行するカメラマンは彼。
「お休みの日なのにすみません!」というわたしの言葉に、「君がいるから休日の仕事でも楽しみだよ」と、さらっと言ってのけるようなひと。「明日は飲み会なんです」と話せば、わたしが彼の知らない男性と良い仲になってしまうんじゃないか?と、いつも心配するようなひと。

22時まで残業していた。やっとのことで帰路につき、数時間ぶりに触った携帯。彼から当たり前のように返事が来ていた。「今から帰る」と、まるで恋人のように連絡する。
「遅くまで仕事しているんだね。今、大切な時期だもんね。気をつけて帰ってね」
わたしの会社とは長いお付き合いの彼。今がまさに正念場だと、何も言わずともわかってくれている。彼が電波に乗せて届けてくれたその言葉は、わたしにとってまるで一日のご褒美のようだった。
「今日も忙しかったけど、あなたから連絡が来て元気が出ました。ありがとう」
わたしは素直にそう伝えた。

うぬぼれかもしれないけど、たぶん、きっと、彼はわたしのことをまっすぐにすきでいてくれているんじゃないかと思う。思わせぶりな言葉も、甘いセリフも、彼の本心だったらうれしいと思う。そんなふうに思うようになった。自分史上最高に忙しい毎日でも、時折届く彼からのLINEに、わたしはすこし余裕でいられる。ふれそうで、ふれられなくて、歯がゆくてもどかしいのに、彼との文字のやりとりはなぜだかとても心地いい。

だから、もし、もしも。
彼がほんとうにそのつもりでいてくれるなら、わたしもきちんと考えたいと思う。

「ありがとう」と「ごめんなさい」の狭間で揺れている。
悩ましい日々が続く。